鈴信博堂の似顔絵日記

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2008年 05月 16日

暗い歌の中でも「呪い」は秀逸。【山崎ハコ】

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山崎ハコ、本名、安田初子。1957年5月18日生まれ。大分県日田市出身。父親の仕事の関係で、中学卒業を待ち祖母と暮らす。卒業後両親の待つ横浜へ。横浜学園高等学校在学中、コンテストに出場がきっかけで1975年にアルバム『飛・び・ま・す』で歌手デビュー。150センチあるかないかの小柄で痩せた体躯からは想像もできないパワフルな声量・表現力を誇る歌唱と、暗く鋭く愛から社会を抉る歌詞で、デビュー当時中島みゆきのライバルと言われた事もある。1975年12月、TBSホールの『パック祭り』に出演。大反響となり、TBS『パックインミュージック』を中心に、“深夜放送のマドンナ”と言われ始める。1979年4月~80年3月 ニッポン放送『オールナイトニッポン』火曜日のDJを担当。その後もリリースやコンサート活動を続け、女性フォークシンガーとして活躍する一方で、エッセイの執筆、演劇出演など多彩な活動を行う。現在も全国のライブハウスを渡り歩くなど、精力的に活動している。

幼少時代から慢性膵炎の持病を抱えており『酒・タバコどころか(膵臓に負担過大なので)ラーメン・コーヒーも口にできない(本人談)』体質である。それゆえ度々ダウンすることもあったが、彼女の歌唱や楽曲制作への意欲は病に負けるどころか、むしろ力強く、多岐に渡り精力的な活動を展開している。また活動拠点をずっと横浜に置き続けているのも、彼女のこだわりである。永年独身を通していたが、演奏・作編曲など長く仕事を共にしたギタリストの安田裕美と結婚。結婚後も良好な公私のパートナー関係であり続けている。

暗い歌歌いシンガーの代表的存在の彼女。実に昔から一部の根強いファンを持つ。彼女の魅力は何と言っても媚びない姿勢だろう。時代の要請に関係なく、己のスタイルを貫き通す姿は実にカッコイイ。世の中、迎合して生きる方が軋轢が少なく楽ではあるが、結果的に何も残らないことが多い。本当に自分のやりたいこと、したいことを意地でも押し通すくらいの覚悟と意気ごみがあったほうがいい。最近それにようやく気づいた。だいぶ、遠回りしてきたような気もするがひとつとて無駄にはなっていない気もする。この年齢になってやりたいことが少しずつハッキリしてきたような気がする。似顔絵もそのひとつではあるけれど…。
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by SUZUNOBU-NIGAOE | 2008-05-16 20:58 | 1955-1959(50~54才)
2008年 05月 15日

13人目の400号達成、本人も喜ぶ。【金本知憲】

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金本知憲、1968年4月3日生まれ。身長180cm、体重88kg。 広島県広島市出身。阪神タイガース所属。外野手。ファンやマスコミからはアニキ(兄貴)、平成の鉄人、西の番長などと呼ばれる。背番号は6。広島・広陵高等学校に進学し硬式野球部入部。金本の1学年上が桑田真澄・清原和博のKKコンビで、清原マニアであったことを自認。現在は親友としても知られている。大学4年、第40回大会(1991年)では3度目の決勝戦進出を果たし、関西大学を相手に延長17回の熱戦を繰り広げ、ついに念願の初優勝。左手首のはく離骨折という大怪我を抱えながら勝ち越しの2点タイムリーを放った金本は、東北福祉大初優勝の立役者となった。同年、第20回日米大学野球選手権では日本代表に選出され、チームの勝利に貢献。

1991年のドラフトで斉藤肇の外れ4位で地元の広島東洋カープに入団。入団後の2年間は芽が出なかった。しかし、1994年後半から頭角を現し17本塁打を放つなどレギュラーに定着。1995年にベストナインを獲得した。以降、1996年に初の3割をマークすると、1997年には2年連続3割、そして初の30本塁打を達成。2000年、それまで不動の4番打者だった江藤が巨人へ移籍した事により4番に抜擢され、史上7人目のトリプルスリーを達成、2001年には39年ぶりに毒島章一の記録を大きく更新する1002打席連続無併殺打の日本記録を樹立、同年の128四球は個人年間四球の歴代5位と、主砲として大活躍、広島にとってなくてはならない存在となる。阪神の球団改革の一端として移籍した金本は、同時に移籍した下柳剛と共に長年チーム内に蔓延していたぬるま湯体質の是正の旗手となった。2003年は開幕から3番打者として定着。球際に強く球界一と言われるほどのスイングスピードという本来の特徴をフルに発揮、長打を量産するようになる。2000本安打を今年4月12日に達成。更に13日の広島6回戦で、今季6号の2ラン本塁打を放ち、通算400本塁打を達成した。プロ野球15人目。

野球選手の功績をたたえる時、どのように文章を連ねていいのか大いに迷う。彼の場合も現在は大絶賛されているものの、ここに到達するまでに様々な紆余曲折があった。しかし、それらを乗り越え、野球界では特別な存在のひとりとなっている。また、多くの熱烈なファンに支えられており、彼の持つ魅力は言葉では語り尽くせない。年齢に関係なく、学ぶところの多い人だ。先日もあるテレビ番組で、引退するまでシーズンオフはないと紹介されていた。物事に対する姿勢が凛としたものを感じる。私に欠ける部分だが、これからの活躍を期待しつつ私もいい影響を受けるよう頑張りたい。
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by suzunobu-nigaoe | 2008-05-15 23:59 | 1965-1969(40~44才)
2008年 05月 13日

生まれたときから見えないって…。【スティーヴィー・ワンダー】

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スティーヴィー・ワンダー、本名:スティーヴランド・モリス・ジャドキンズ。1950年5月13日生まれ。(今日が誕生日) アメリカ合衆国ミシガン州サギノー出身。保育器内での過量酸素(未熟児網膜症)が原因で生まれてすぐに目が見えなくなる。11歳の時、モータウン社長の前で歌と演奏を披露しレーベルに契約、2年後に初アルバム「フィンガーティップス」を発売(当初は「リトル・スティーヴィー・ワンダー」名義)。全米でNo.1シングルとなり、一躍有名になる。わずか12歳でデビューしたためビートルズのメンバーとは年齢が離れているにもかかわらず、ほぼ同等のキャリアを持っている。

当時開発されたばかりのモーグ・シンセサイザーに感銘を受ける。以後、スティーヴィーはシンセサイザーを駆使し、殆どの楽器を自分で演奏するアルバム作りのスタイルを確立してゆく。1976年には2枚組のオリジナルアルバム「キー・オブ・ライフ(Songs in the Key of Life)」をリリース。このアルバムは当時全米アルバムチャート14週1位となる大ヒットになり、スティーヴィーの最高傑作の呼び名も高い。また、この年のグラミー賞の最優秀アルバム賞も受賞した。1984年の映画「ウーマン・イン・レッド(The Woman in Red)」のサウンドトラックに用いられた「心の愛(I Just Called to Say I Love You)」は、米英で大ヒットするとともにアカデミー歌曲賞、ゴールデングローブ賞を受賞した。

彼の非凡な音楽センスは、物心つく前から目が見えない代わりに神が与えたと称される。単なるブラック・ミュージックの枠を越え、さまざまなジャンルの音楽を違和感無く自身の音楽に消化してしまうことから、異ジャンルの音楽家からも尊敬を集めている。また、視覚障害や音楽的素養などの共通点があることから、しばしばレイ・チャールズと対比される。目が見えないのは辛い。私の場合、最近老眼がついに入ってきてしまった(ーー;)。近視なので小さな文字は眼鏡を外した方が見易いのだ。寄る年波には勝てず今日新たに度の弱い眼鏡をインターネットで購入した。なんと、5,000円代で買えたのだ。それでも見えることに感謝しつつ、来る現実を受け入れざるを得ない。全盲の方には申し訳ないが、私のやりたいことは見えないと叶わないことばかり…。できないことを悔やむよりできることに感謝したい。
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by suzunobu-nigaoe | 2008-05-13 23:59 | 1950-1954(55~59才)
2008年 05月 12日

新しいアルバム、楽しみです。【加藤登紀子】

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加藤登紀子、1943年12月27日生まれ。旧満州ハルピン生まれのシンガーソングライター、作詞家、作曲家。「おときさん」の愛称で親しまれている。東京都立駒場高等学校、東京大学文学部西洋史学科卒。現在は城西国際大学観光学部ウェルネスツーリズム学科の客員教授でもある。1965年 東京大学在学中に、第2回日本アマチュアシャンソンコンクール優勝。1966年 「誰も誰も知らない」でデビュー。「赤い風船」で日本レコード大賞新人賞受賞。1969年 「ひとり寝の子守唄」で日本レコード大賞歌唱賞受賞。1971年 「知床旅情」(作詞・作曲: 森繁久彌、ミリオンセラー)で、2度目の日本レコード大賞歌唱賞受賞。1972年 藤本敏夫と獄中結婚。

1983年 東宝映画『居酒屋兆治』に高倉健の妻役で、映画初出演。1987年 「百万本のバラ」大ヒット。「難破船(中森明菜)」「わが人生に悔いなし(石原裕次郎)」といった提供曲も、好セールスを記録。1988年 ニューヨークのカーネギー・ホールで日本人女性として初めてのコンサートを行う。 1992年 スタジオジブリ『紅の豚』(監督: 宮崎駿)に声優として出演、主題歌「さくらんぼの実る頃」、エンディング・テーマ「時には昔の話を」も担当。また同年に、芸術文化活動における功績に対して、フランス政府からシュバリエ勲章を授与される。2008年 九条世界会議に参加し、全体会のフィナーレを飾った

今月、「あの頃流れていた歌―」でカバーソングを出す彼女。叙情派シンガーとして皆の記憶に残る歌を残してきた彼女。年齢を重ねることの何と貴重なことか…。最近、カバーソングで綴ったアルバムを出すアーティストが増えているが、彼等の魅力はなんと言っても生きてきた引き出しの多さだろう。経験から産み出される歌、表現力、これらは何物にも変えがたい。私も若輩ながら?少しばかりの経験を持っている。これらがやっと最近生きてきたように感じる。さて、明日は又どんな事が待ってることやら^_^;
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by suzunobu-nigaoe | 2008-05-12 23:59 | 1940-1944(65~69才)
2008年 05月 11日

37才の若さでこの世を去った伝説の歌手。【大塚博堂】

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大塚博堂(はくどう)、本名:おおつか ひろたか(漢字同じ)。1944年3月22日生まれ、1981年5月18日逝去。血液型A型。大分県別府市出身。東洋音楽大学中退。大分県別府市出身。東洋音楽大学(現:東京音楽大学)声楽科中退。1972年に「大塚たけし」名義で歌手デビューするも、不発。その後クラブでの弾き語りの活動などが評判になり、1976年6月26日、『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』で32歳の再デビュー。これが評価され、遅咲きながらも『めぐり逢い紡いで』、『過ぎ去りし想い出は』や『季節の中に埋もれて』などの曲で活発な音楽活動を行ったが、1981年5月18日に脳内出血のため37歳で急逝した。5年間の活動に凝縮された彼の曲は、レコード化されたものが約80曲、没後に発表されたものを含めて約90曲である。その他、小野寺昭、岩城滉一やペギー葉山など他歌手に提供した歌が40曲ほどある。

ステージ活動を中心にして全国を回り、"愛を唄う吟遊詩人"として徐々に人気を高めていった。ファン層は20代を中心とした女性が多く、コンサートでは涙を流しながら博堂の歌を聴く女性ファンが多かったと伝えられている。トレードマークのヒゲとサングラスで、低音から高音まで幅広い音域と、抜群の歌唱力で唄いあげる博堂のコンサートは、年間100ヶ所以上を数えた。初期の作品は、デビュー『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』を作詞した藤公之介と組んだものが多かったが、3枚目のアルバム『もう少しの居眠りを』から作詞家るい(本名:小坂洋二)が登場する。るいは博堂が所属する渡辺プロダクションの社員で、博堂担当のマネージャーだった。また、後期は山川啓介と数曲組んでいる。そして最後のアルバム『感傷』では、全作品の作詞を阿久悠が行っている。

1週間後に27回目の命日を迎える。亡くなった方を描くのは二人目だけど、私の鈴信「博堂」の名前を勝手に頂いた尊敬する歌手だ。今もって彼の歌を歌い続けるシンガーも多数いるし、ファン倶楽部まで存在する。改めて彼の存在の大きさに心動かされる。私も少しばかり人前で歌を歌うが、彼の歌が大好きでその殆どが持ち歌だ。わずか10年足らずの歌手活動の中で多くの人たちの心に思い出を残した。私など遠く及ばないが、少しでも彼の生き方を理解できるよう彼の歌を今日も口ずさみたい。
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by suzunobu-nigaoe | 2008-05-11 23:13 | 1940-1944(65~69才)
2008年 05月 10日

妖艶な演歌の歌姫はロック好き。【藤あや子】

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藤あや子、1961年5月10日生まれ(今日が誕生日)。秋田県仙北市出身。1987年6月21日、CBSソニーから「村勢真奈美」の芸名でテビュー、曲は「ふたり川」作詞:石本美由起、作曲:船村徹。1989年9月21日、「藤あや子」としてデビュー、曲は「おんな」作詞:荒川利夫、作曲:叶弦大。 艶やかな着物美人として知られており、着物メーカーのキャラターをつとめることも多い。また作詞・作曲を行うとき「小野彩(このさい)」というペンネームを使っており、最近では自身の作詞作曲の作品も多い。1992年「こころ酒」から1994年「女泣川おなきがわ」まで3作連続オリコンシングルチャートTOP10入りした。(女性演歌歌手として平成初の記録。現在は水森かおりが5作連続TOP10入りを継続中)

1991年、所属レコード会社・SMEの担当ディレクターが藤の自宅で自殺。1992年、「こころ酒」で日本有線大賞を受賞。1994年、「花のワルツ」で日本有線大賞を2度目の受賞。「さんまのまんま」にて二十歳で娘を出産をし、離婚後にデビューをしたと語っている(1981年に結婚。出産の後、翌年に離婚。なお、別れた夫も離婚後に自殺している)。2007年9月21日放送の「ライオンのごきげんよう」にて、娘が同年の1月15日に入籍した事を話した。

数少ない演歌歌手の中で頑張っている一人だ。しかしながら昨年末、第58回NHK紅白歌合戦に落選。連続出場記録が15回で途絶えてしまった。連続してるものはいつか途切れる。例外なく。残念だけど、またチャレンジすればいい。固執するあまり、目的が違ってしまうこともよくある話で…。座右の銘ではないけれど、「流れを受け入れる」ことも大切に思える。必要だから訪れる現象。逆らってみても徒労に終わることの方が多い。若い頃はそうは思えなかった。自分の力で何とかしたい―みたいな思いが少なからずあって、それが結果的に無理な行動につながった。諦めるのではない。来るものを意味あるものとして捉えてみて分かることもあるような気がする。肩に力の入らない生き方、できたらいいね(^^)v
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by suzunobu-nigaoe | 2008-05-10 15:41 | 1960-1964(45~49才)
2008年 05月 08日

ヤマハ独立の裏にはいろいろあったようで…。【西村由紀江】

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西村由紀江、1967年5月8日(今日が誕生日 )。大阪府豊中市出身。桐朋学園大学ピアノ科卒業。3歳よりピアノを始め、小学生時代にヤマハ・ジュニア・オリジナル・コンサートに参加し世界各国を演奏旅行。 桐朋学園大学在学中の1986年にアルバム「Angelique」でデビューした。1988年より「西村由紀江の日曜はピアノ気分」放送開始。10年にも渡る長寿番組となる。1991年にテレビドラマ 『101回目のプロポーズ』 の音楽を担当して全国的に注目され、同タイトルのサウンドトラックは、インストゥルメンタルとしては驚異的なオリコン3位という成績を残した。

この頃からドラマ 『親愛なる者へ』 など、テレビ番組のBGMでの起用が目立ち始める。2006年に映画 『子ぎつねヘレン』 の音楽を担当。また、同年、NHK教育テレビの趣味講座番組 『趣味悠々』 にて 『西村由紀江のやさしいピアノレッスン 世界の名曲を弾いてみよう』 の講師を担当近年では学校コンサートや病院コンサートをライフワークとして年間60本以上のコンサートを行ないつつ、毎年1枚のペースでアルバムを発売している。2007年4月1日に(財)ヤマハ音楽振興会より独立し、現在は西村の個人事務所である株式会社モデラートにて活動を行なっている。2007年9月、自叙伝「あなたが輝くとき」を出版。同著では、これまであまり語られていなかった家庭環境やデビュー当時のエピソード、事務所を離れる際のできごとなどが、正直に、ストレートに綴られている。また、涙を誘うような記述の一方で、ユーモアセンスに溢れた笑えるエピソードも満載され、「西村由紀江」という人物を知る上で、欠かせないエッセイ集である。

独立できる人と組織の中で働く人。良い悪いではないが、独立することはえらくパワーと勇気のいることだ。これまでの成功は組織の影響力だったことを思いのほか知らされたり、見えなかった周りの人たちの素顔が垣間見えることが独立の良さかも知れない。成功するとは限らないが、大きな組織を離れてみるのも世界観が変わって面白い。捨てる神あらば拾う神あり―だ。一生懸命生きてる人を世間は見捨てやしない。神様の有無はさて置き、人の目を気にせずにありのままに生きる姿に人は心打たれる。どう思われたっていい…。せめて人の気持ちが分かる優しささえ持てるのなら(^v^) な~んちゃって。
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by suzunobu-nigaoe | 2008-05-08 23:59 | 1965-1969(40~44才)
2008年 05月 07日

千の風に…の作者です。【新井満】

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新井満(あらいまん)、本名:滿(みつる)。1946年5月7日生まれ。新潟県生まれ。新潟明訓高等学校、上智大学法学部卒業。上智大学グリークラブ(男声合唱団)に所属するも、入院退部。電通に入社し環境ビデオ映像の製作に携わるかたわら、小説・歌などの創作活動に入る。2006年5月末日に定年退職した。昭和52年(1977年)、カネボウのCMソングとして自ら歌唱した『ワインカラーのときめき』(作詞:阿久悠 作曲:森田公一)がヒット曲となる。昭和62年(1987年)、『ヴェクサシオン』で第9回野間文芸新人賞受賞。昭和63年(1988年)の『尋ね人の時間』で第99回芥川賞受賞。都会生活を営む現代人の心象を、詩的な物語性によって繊細に描く作風と評価される。近年では、劇映画にもなった詠み人知らずの詩『千の風になって』などの訳詩・シンガーソングライターとしても活躍する。

『千の風になって』の原詩である作者不詳とされる英語詩『Do not stand at my grave and weep』を新井満が日本語訳し、新井が撮影した写真を添えて写真詩として単行本化したもの。日本語詩を歌詞として新井が作曲した曲の楽譜も添えられている。新井自らが歌い、CD化された。のち、第57回NHK紅白歌合戦でテノール歌手・秋川雅史がこの歌を熱唱した結果問い合わせが殺到、2007年1月22日付のオリコン総合チャートで1位を獲得し、好セールスを記録した。

彼を10年位前、電通で一度見たことがある。とてもサラリーマンとは思えない風貌をしていた。自由人とでも言うのかな?私の理想とするところだ。才能は万人に等しくない。一握りの人だけがその恩恵に預かる。昨日テレビで「ビューティフル・ピープル」なる集まりの番組を見た。世界10数カ国に存在して美男美女だけで構成するグループのことらしい。会員の半数以上の支持を受けた者だけが新たな会員となれる。美の追求のために月100万近く使っている二十歳そこそこの会員もいた。綺麗も才能のうちだが、維持しにくい才能は辛い。むしろ、並であった方が幸せな場合もある。お金もいつかはなくなってしまう儚い存在だ。それよりも減らない内面的なものに力を注ぎたい今日この頃だ。
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by suzunobu-nigaoe | 2008-05-07 23:59 | 1945-1949(60~64才)
2008年 05月 06日

悲しみを乗り越えて…。【吉田美和】

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吉田美和、1965年5月6日生まれ(今日が誕生日)。血液型A型。北海道帯広柏葉高等学校卒。北海道中川郡池田町出身。身長162cm。映像ディレクター故末田健の内縁の妻。中学時代に学校祭でバンドを結成、自作の曲を発表。また、この頃は常に成績オール5をとるなど、優秀な生徒だった。北海道帯広柏葉高等学校進学後、高校時代の文集では、「将来bigになる」と記していた。元DREAMS COME TRUEの西川隆宏とは高校時代に出会う。中村正人と初めて会った時、彼に名曲「うれしはずかし朝帰り」「週に一度の恋人」を歌って聴かせたというのは、有名な話である。その後、小泉今日子や中山美穂のバックボーカルや、中村正人と共にとんねるずなどのバックバンドに参加しながら、DREAMS COME TRUEの前身と言える「CHA-CHA & AUDREY's PROJECT」を結成、ライブ活動を行う。

毒舌で知られる歌手和田アキ子も吉田の歌唱力を大変絶賛しており、ワンダーランドにも訪れる程である。2003年3月、交際中であった9歳年下の映像ディレクター末田健の離婚が成立、2004年5月に入籍はしない事実婚という形での“結婚”を発表。末田は一児を持つ既婚者であった。2007年9月26日、末田は胚細胞腫瘍で逝去。2008年、10年振りに改訂された広辞苑 第六版の広告媒体に著名人8人の1人として起用される。キャッチコピーは「ことばには、意味がある。」で、吉田に選ばれたことばは「愛」。数々のラブソングを作り上げてきた吉田にとってふさわしいものだった。また他のアーティストへ歌詞を提供する際には「観音崎すみれ」のペンネームを使用することがある。

日本を代表する歌姫、吉田美和。彼女の歌唱力は自他共に認める日本屈指のアーティストだ。ドリカムも含め、彼女の歌を全く知らない日本人は僅かだろう。私は「未来予想図Ⅱ」が特に好きだが、最近本当の意味で歌唱力のあるミュージシャンが少なくなったような気がする。日本テレビの「うたスタ」の影響もあるかもしれないが、素人とプロの垣根の差が無くなってきている。それだけに容姿だけでなく、本来の歌唱力の大切さを痛感する。何も歌に限ったことではない。物事本来の本質をどれだけ追求しているか、今問われている。仕事の本質を今一度考えてみたい。
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by suzunobu-nigaoe | 2008-05-06 23:59 | 1965-1969(40~44才)
2008年 05月 03日

カツラ疑惑はヤハリ本当?【橋幸夫】

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橋幸夫、1943年5月3日生まれ(今日が誕生日)。東京都荒川区出身。俳優の橋龍吾は息子。演歌歌手の橋宏之は甥にあたる。遠藤実、吉田正に師事し、1960年に「潮来笠」でビクターレコードからデビュー、同曲で日本レコード大賞新人賞受賞。後にデビューした舟木一夫、西郷輝彦とともに「御三家」として人気を集める。御三家として活躍していた頃、ステージ上で観客に紛れた暴漢に襲われたことがある。そのときに負ったケガが原因で、現在でも左手の薬指が伸ばせないという後遺症が残っている。「御三家」は2000年あたりにG3Kと名乗り、ユニットとして活動したこともある。 その時、水戸黄門・第29部から第32部にかけて他の「御三家」の面々と共にテーマソング・「ああ人生に涙あり」も歌った。

ビクターからデビューする以前にコロムビアのオーディションに落ちているが、コロムビアからデビューしていたら、舟木一夫という芸名になる予定であったらしい。世の中わからないものだ。1962年、吉永小百合とのデュエット曲「いつでも夢を」が30万枚以上を売り上げる大ヒットとなり、第4回日本レコード大賞を受賞した。1966年、「霧氷」で再び第8回日本レコード大賞を受賞。人気と実力を兼ね備えた若手ナンバーワン歌手と目され、映画に出演したこともある。1980年前後に巻き起こった漫才ブームの時期、ザ・ぼんちのぼんちおさむが橋幸夫のものまねを頻繁に披露。歌手としてはやや低迷していた橋にもスポットが当たった。歌手の他に、俳優としても活躍、著書に認知症の実母の介護生活を綴った「お母さんは宇宙人」がある。

大御所。それなりの実績とキャリア、周りの評価と本人の実感は別物だろう。井上陽水の昔の歌に「限りない欲望」と言う歌があるが、人間の欲望ほどこれでいいと言うものはない。お金持ち、美しい人、偉い人、その誰もがよりもっとを考える。橋さんだってそうに違いない。どんなに周りから素晴らしいと言われたところで、本人の感慨は別なところにあることは少なくない。ちなみにこのブログ、明日で連続描画365日を迎える。ささいな日数ではあるが個人的には快挙だ、お祝いしたい(*^_^*)。どうか皆さんも一緒に祝ってやってください。似顔絵対象も特別な方を用意しています。
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by suzunobu-nigaoe | 2008-05-03 23:59 | 1940-1944(65~69才)