鈴信博堂の似顔絵日記

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2008年 09月 27日

『大ちゃん数え唄』は38年前の作品!【天童よしみ】

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天童よしみ、本名:吉田芳美、1957年9月26日生まれ。(今日が誕生日)和歌山県田辺市出身。幼少期に大阪府八尾市に移住し、現在も在住。 八尾市立龍華小学校、八尾市立龍華中学校卒業。血液型はB型。 中学生であった頃の1970年10月4日に、吉田よしみ名義で『大ちゃん数え唄』を発売。フジテレビ系列で放映されたテレビアニメ「いなかっぺ大将」の主題歌である。1972年、讀賣テレビ「全日本歌謡選手権」で10週連続勝ち抜き、7代目グランドチャンピオンに輝く。レギュラー審査員のルポライター竹中労が作詞した『風が吹く』で、天童よしみ(竹中命名)としてキャニオンレコードからプロデビュー。

しかしその後、10年に亘る長い低迷を経験、一旦は引退も決意するが、両親の説得で思いとどまる。その後、1986年12月にテイチクレコード移籍第一号として『道頓堀(とんぼり)人情』を発売するにあたり、北は北海道から南は福岡県まで1ヶ月で300件もの営業をこなし、有線からじわじわと人気が出、結果ヒット作となった。以降、1993年紅白歌合戦初出場、1996年に発売した『珍島物語』はロングヒットで自身初のミリオンセラーとなり、天性のキャラクターと相まって不動の人気を誇っている。1998年には、「天童よしみキーホルダー」が若い世代の人気を呼び、話題となった。2006年8月29日、紅頭巾名義でシングル『紅頭巾参上』を発売。新歌舞伎座の特別公演「天童よしみの痛快!紅頭巾~明日への道標~」の挿入歌である。

札幌二日目の夜である。私は明日東京に帰るが、天童さんはこの札幌をスタートに全国を回って営業活動をした。単純に割り算しても1日10件以上のハードスケジュールだ。ラストチャンスとして賭けに出たようだ。一か八か…選択を迫られることは誰しもある。そこで思い切り踏み切れるかどうか、もしくは運があるかないか、ターニングポイントは本人が決めるしかない。諦めも選択肢のひとつだが後悔は残るだろう。できることを精一杯やると言う姿勢、彼女の生き方から学ぶことができる。日本全国、殆どの都市を回った。コンビニがあり、居酒屋の見慣れた看板は独自性を失わせるが、触れ合う人柄が大きく異なる。気のせいか北海道の方々はおおらかに感じる。横断歩道もここでならキチンと赤で止まれるから不思議だ(^_^;)
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by suzunobu-nigaoe | 2008-09-27 19:15 | 1955-1959(50~54才)
2008年 09月 17日

元スチュワーデス志望。【大貫亜美】

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大貫亜美、1973年9月18日生まれ。夫はGLAYのTERU。 東京都町田市生まれ、神奈川県横浜市育ち。血液型A型。当初はソロデビューの予定で音源も制作されていたが、吉村由美とパフィーを結成し、1996年にシングル「アジアの純真」でデビュー。予想外の成功を収めた為、吉村もソロ音源を制作、併せて大貫亜美・吉村由美名義でアルバム[solosolo」として発表したが、以降はパフィーとして現在まで音楽活動を行っている。その他の活動としては、雑誌へのエッセイ連載、ロドニー・アラン・グリーンブラットの絵本の翻訳、ファッションブランド キャンディー・ストリッパーの板橋よしえとのユニット ロンパース、ドラマ、CM出演等がある。趣味人で、漫画の収集家でもある為、おたくのファンが多い。

「パフィー声」 と称される、ふたりの声が渾然一体となった独特のユニゾン唱法を用いるのが特徴で、CD上でのハーモニーは、実際にはその多くで2人がユニゾンで歌うハーモニー・パートを多重録音しており、2人がそれぞれ違うパートを歌うデュオとは異なる。その理由は、それぞれが違うパートで歌うテクニック(実力)がない為とも言われ、2人をプロデュースした奥田民生自身も「こんなものが売れるはずない」と思っていた。ソニー・ミュージックアーティス,Ki/oon Records所属。2002年からは北米ツアーを行い、アメリカ合衆国やカナダにおいて"Puffy AmiYumi"(パフィー・アミユミ)名義で活動している。

今日は母の命日だ。亜美ちゃんとは何の関係もないが、亡くなって7年が経つ。父は18年前に他界した。どちらも癌だ。最も多い病気だから、癌の家系とかは気にならない。人間はいつか死んでしまう。寿命が延びたとは言え、若くなったと言われても限りある命に変わりはない。だから貴重なのだ、生かされていること自体ありがたい。そんな一生の中で彼女のように成功を収める人もいれば、平凡で何も大きな波のない人、波乱万丈の人、様々な人々で構成されている。ただいえることは夫々に意味のあることであり、誰もが同じように幸不幸の波があると言うこと。その高さが異なるだけのような気がする。パフィーの歌からは上手くはないが目一杯の元気がもらえる。元気だけでも生きる上では大切な源だ。さぁ、元気を出して生きていきましょう。
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by suzunobu-nigaoe | 2008-09-17 23:59 | 1970-1974(35~39才)
2008年 09月 06日

今日から始めました、達筆風ポエム。【長渕剛】

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長渕剛、1956年9月7日生まれ。(明日が誕生日)血液型A型。九州産業大学芸術学部写真学科中退。鹿児島県鹿児島市出身。1977年、シングル『雨の嵐山』で歌手としてデビュー。(一般的には再デビューの1978年『巡恋歌』を本格デビューとしている。)『順子』や『乾杯』、『とんぼ』、『しゃぼん玉』、『しあわせになろうよ』などのヒット曲を持ち、また、俳優としては、『親子ゲーム』や『とんぼ』、『オルゴール』などのドラマや映画出演で知られる。 ソロアーティストとしてアルバム初登場一位獲得数12作品という記録をもっている。またソロアーティストでは井上陽水、槇原敬之とともにシングル売り上げ1000万枚を突破している。

幼い頃の長渕は体が非常に弱く、よく喘息発作を起こし、病院通いが欠かせなかった。音楽が長渕の楽しみであった。吉田拓郎や加川良、友部正人、遠藤賢司等のフォークソングを好んで聴いていた。高校時代に生で観覧した拓郎のコンサートがプロを目指すきっかけ。スポーツ界との交流も深く、そのジャンルも、極真空手の緑健児やプロボクサーの戸高秀樹、プロ野球・福岡ソフトバンクホークスのゼネラルマネージャーを務める王貞治やオリックス・バファローズの清原和博、F1レーサーの佐藤琢磨、ラグビーの大八木淳史、K-1の山本"KID"徳郁、元Jリーガーの呂比須ワグナー、横綱の朝青龍等幅広い。2008年5月14日、21日、過去に発表された楽曲の中からラブソングを中心にリマスタリング、セルフカバー、リミックスを施して選曲したベストアルバム「LOVE」、「SONGS」を発売。

今日から新たな試みとして「達筆風ポエム」を併せて始めることにした。これは本人の名前の下に詩を書くというものだ。兼ねてからの持論だが、絵と文字は似ている。と言うのも、文字もお手本に忠実に似せて書くと言う点では、似顔絵とさほど変わりはない。ということで、手前味噌だが私は普段、達筆だねとかよく言われるが(苦笑)その極意?を皆さんに伝授できたらうれしい。ペン字の本は数あれど、意外と時間のかかる教え方に思えてならない。私が教えるんだったら絵としてレクチャーしたい。このサイトで始めるか、別に設けるかは課題としてお楽しみ頂けたら幸いだ。長渕さんは言わずと知れたスーパースター。音楽だけでなく芸術にも才能みせているクリエーター。今後の展開に期待したい。
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by suzunobu-nigaoe | 2008-09-06 20:05 | 1955-1959(50~54才)
2008年 08月 29日

50歳、おめでとう?!【マイケル・ジャクソン】

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マイケル・ジャクソン、1958年8月29日生まれ。(今日が誕生日)アメリカ合衆国インディアナ州ゲイリー出身。身長178cm、体重55kg。マイケル・ジャクソン銅像ギネス・ワールド・レコーズでは史上最も成功したエンターテイナーとして認定されている。世界総売上げは7億5000万枚(2006年10月末現在)以上。エルヴィス・プレスリーやザ・ビートルズと同様に、音楽界における歴史上の天才の一人。2008年2月、スリラー25周年記念エディションをリリース。エイコン、ウィル・アイ・アム、カニエ・ウェストらによる同アルバム収録曲のリミックスが収録されている。

ギネス記録は「全米シングルチャートで首位を獲得した最年少ボーカリスト(ジャクソン・ファイヴ当時11歳)」、「全米シングルチャートで初登場1位を記録した最初のボーカリスト(You Are Not Alone)」、「年間売上げ高が1億ドルを超えた最初のエンターテイナー(1989年、Forbes誌)」、「史上最高額の所得を得たエンターテイナー(89年に1億2500万ドル)」などの記録を保有。アルバム"Thriller"に関する記録は「6500万枚の世界最高枚数の売り上げ(ギネスブック2007年度版に記載されている売上。公称は1億400万枚)」「全米アルバムチャートでの最長期間首位(37週・サウンドトラック盤を除く)」、「最も成功した音楽ビデオ(100万本以上の売上げ)」などのギネス記録を保有している。

その高い音楽性よりも奇行や整形が話題になりすぎた。黒人へのコンプレックスから容姿を変えていった彼。それでも欲望を満たすことは無かったのだろう。物やお金、形あるものに欲求を求めていくと止まるところを知らない。なったことはないので分からないが、天才は孤独だと言われる。理解できないよね、その立場に立ったことがないのだから、凡人には。だから他人に求めてはいけないんだと思う。自分の中で解決するしかない、納得させるしかない。理不尽なこと、合点のいかないこと、世の中には沢山ある。それをどうコントロールして穏やかに過ごせるか、私も日々葛藤している。
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by suzunobu-nigaoe | 2008-08-29 23:59 | 1955-1959(50~54才)
2008年 08月 24日

高島忠夫は叔父、高嶋政宏・政伸兄弟はいとこ。【高嶋ちさ子】

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高嶋ちさ子、1968年8月24日生まれ。(今日が誕生日)血液型A型。イェール大学音楽学部大学院修士課程アーティスト・ディプロマコース修了。東京都出身。父の高嶋弘之は東芝EMIの元ディレクターで、ビートルズを日本に紹介した人物。その兄が俳優の高島忠夫であり、高嶋政宏・政伸兄弟はいとこにあたる。6歳からヴァイオリンを習い始め、徳永二男、江藤俊哉、ショーコ・アキ・アールに師事した。青山学院初等部、中等部、桐朋女子高等学校音楽科、桐朋学園大学音楽学部卒業。

イェール大学音楽学部大学院修士課程アーティスト・ディプロマコース修了。在学中にノーフォーク音楽祭、サラソタ音楽祭、バンフ音楽祭、パシフィック・ミュージック・フェスティバル等に参加。1994年、マイケル・ティルソン・トーマス率いるマイアミのオーケストラ、ニュー・ワールド・シンフォニーに入団。1995年、チェロ奏者・大藤桂子と共にチョコレート・ファッションというユニットでCDデビューした。大藤とのコンビは程なく解消し、セカンドアルバム以降は実質的に高嶋のソロ・プロジェクトとなる。1997年3月、日本に拠点を移す。1999年2月に結婚。2004年、1736年製ストラディヴァリウス「ルーシー(Roussy)」を入手。2006年、プロジェクト「高嶋ちさ子 12人のヴァイオリニスト」を立ち上げる。2007年2月6日午前1時33分、都内の病院で第1子となる男児を出産した。

彼女は水泳が得意で、「カッパのちぃちゃん」とも呼ばれていた。本人は「将来はスポーツ選手になろう」と思っていたが、小学生の頃祖母に相談した所、「手に職をつけて、一生仕事ができるような事を目標にしてみなさい。」とアドバイスされ、ヴァイオリンで身を立てようと決意したらしい。私の場合はどうだったかと言うと、身内に画家がいたこともあり絵の仕事を関わっていきたいとは子供心に思っていた。しかし就いた仕事は食べていくためものだったが、必ずいつも絵の仕事は傍らにあった。好きであることと諦めないこと、この想いさえあればやりたい事がライフワークになるのではないだろうか。今日も好きな絵を描かせて頂けることに感謝である!(^^)!
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by suzunobu-nigaoe | 2008-08-24 19:00 | 1965-1969(40~44才)
2008年 08月 13日

新境地を求めて…。【高橋ジョージ】

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高橋ジョージ、本名:高橋恭司、1958年8月13日生まれ。(今日が誕生日)宮城県栗原市出身。血液型A型。岩手県立 一関工業高等学校中退。 ビーイング在籍時、「トラブル」を結成し、1982年にシングル『Mr.リッケンバッカー』でデビュー。 1980年デビューの計画もあったが、横浜銀蝿との兼ね合いもあり事務所の方針でデビューが2年遅れた。舘ひろしのカバー曲や、秋元康の作詞した作品等を歌った後、現バンド名である「THE 虎舞竜」に改めてからの1993年にファンからの手紙を元に作った「ロード」が約200万枚の大ヒット曲となり、一躍有名になる。現在の妻は、「世界のミフネ」こと故三船敏郎の娘でタレントの三船美佳。24歳差の結婚で大変話題に。おしどり夫婦としてバラエティにも多数出演中。2004年11月9日に長女が誕生した。自身は三船と結婚前に離婚を一度経験している。

元々は音楽活動が中心だったが、現在はトーク番組やバラエティ番組のコメンテーターとしてのタレント業が中心。バンドとしては年に数回程度イベントライブを行っている。2006年5月からレギュラーコメンテーターとして出演しているサンデージャポン(TBS)でも何度か自論を強調するあまり、視聴者からのクレームも多数殺到することもある。また俳優としても、東京大空襲(日本テレビ系、2008年3月17日・18日)中村嘉男役 、ゆっくり歩け、空を見ろ (関西テレビ制作・フジテレビ系、2008年4月1日)東国原英夫役、和田アキ子物語(フジテレビ系、2008年6月20日)等新たな境地を模索している。

今日で50歳を迎えた彼。歳の差カップルと騒がれてから早10年。私の周りにも26歳差夫婦がいるが、見た目以外は特に普通の夫婦と変わりはない。男女の年齢差なんて、意識するほど大きくないのかもしれない。本人同士さえ良ければたとえいくつ離れていようが生活する上で支障はないのだろう。それよりも年齢的な仕事の可能性という点で、今後の方向性の方が深刻な問題だ。私もそうだが、20代の時のような漠然とした夢はもはや持てない。元気に活動できる時間はあと15~20年でしかないこの現実。決して悲観している訳ではないが、自分のやりたい事と真剣に向き合うことは大切なことだ。高橋ジョージも悩んでいるに違いない。人生はサイコ
ロを振るようなわけにはいかないものだ…。
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by suzunobu-nigaoe | 2008-08-13 22:36 | 1955-1959(50~54才)
2008年 08月 12日

「ものまね王座決定戦」での名物審査員姿が懐かしい。【淡谷のり子】

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淡谷のり子、1907年8月12日生まれ。(今日が誕生日) 1999年9月22日逝去(92歳)。青森県青森市出身。愛称は淡谷先生。日本のシャンソン界の先駆者であり、代表曲から「ブルースの女王」と呼ばれる。デビュー当初は、綺麗なハイトーンで素直な歌唱だったが、やがて、妖艶なソプラノで「昭和モダン」の哀愁を歌った。1910年の青森市大火によって生家が没落。10代の頃に実家が破産し、1923年に母と妹と共に上京。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科に入学する。後に荻野綾子に声楽の資質を見出されて声楽科に編入。オペラ歌手を目指すためクラシックの基礎を学んだ。しかし家がだんだんと貧しくなり、学校を1年間休学して絵画の裸婦のモデルを勤めるなどして生活費を稼いだ。淡谷をモデルにした「裸婦臥像」は二科会に出展された。

1931年コロムビアへ移籍。古賀メロディーの「私此頃憂鬱よ」がヒット。映画主題歌を中心に外国のポピュラーソングを吹込む。これらの楽曲は、昭和モダンの香りを漂わせていた。1935年の「ドンニャ・マリキータ」はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手の第1号となる。日中戦争が勃発した1937年に「別れのブルース」が大ヒット、スターダムへ登りつめる。ブルースの情感を出すために吹込み前の晩酒・タバコを呷り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌う。その後も数々の名曲を世に送り出し「淡谷のり子」の名をとどろかせる。

記憶に残る芸能人は少ない。淡谷さんのピーク時は記憶にないが(当たり前だけど)、晩年の歌番組での審査員での歯に衣着せぬ物言いは爽快かつ小気味いいものがあった。物事をハッキリ言えるのは、それ相応のキャリアがないとできることではないし、下手すれば敵も作り易い。愛情から出ている言葉は、厳しささえも相手に伝わる。今の時代私も含め、子供や部下に厳しく対処することができないと言われている。無難に接していたほうが楽だし、相手から嫌われることも少ない。でも本当に言わなければならないこと、相手のためになるならないことはキチンと伝えることも必要だ。淡谷さんが亡くなられて早9年。芸能人でなくとも記憶に残るような生き方ができたら幸いだ。
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by suzunobu-nigaoe | 2008-08-12 18:24 | -1919(91才~)
2008年 08月 07日

歌手活動は副業?【桑名正博】

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桑名正博、1953年8月7日生まれ。(今日が誕生日)大阪府大阪市天王寺区出身。血液型A型。甲南高等学校卒。1979年カネボウ化粧品キャンペーンソング『セクシャルバイオレットNo.1』などが代表作。いわゆる「ロック歌謡」と呼ばれたジャンルがブームだったのもこの頃である。しかし、「桑名節」と言われるほど、桑名の歌声は今もなお色あせない魅力を持つ。1977年にコカイン所持で逮捕され、懲役2年執行猶予3年の有罪判決、1981年9月28日には女性に対する乱暴目的の傷害で逮捕された。かつて歌手のアン・ルイスと結婚するも離婚。二人の間には長男・美勇士がいる。また、再婚した女性との間に次男・桑名錬がいる。

現在本業は家業である桑名興業(港湾荷役、建設業、倉庫業)の社長を務めており、音楽活動は副業的に行っている状態。俳優としては、1980年に根津甚八、大竹しのぶと共演した『恋人たち』(TBS)での根津の不良の弟"ロク"役などで強い印象を残している。その他ドラマでは大阪弁をしゃべる気さくな役柄が多い。また、コメンテーターやリポーターなど幅広い活躍を続けている。社会活動家として多くの足跡も残しており、障害のある子供への支援事業や、海外の戦地の子供たちへの支援活動やチャリティ、といった地道な活動を、約20年に渡ってコツコツと続けている。現在の音楽活動はそのために行っている傾向が強い。本人のシャイな性格と、売名行為と中傷されることを嫌い、社会活動を行っていることを積極的にアピールすることはないが、その姿勢や活動に賛同する芸能人も多い。

30年前に作った「月のあかり」は、今や大阪人のカラオケスタンダード。息の長い名曲だ。どこか荒っぽいイメージの彼だが、実態はシャイで優しい。そんな人間性が表現する歌にも表れる。そんなギャップが彼の魅力でもある。大人にならなければ表現できないもの、歌だけでなく沢山あると思う。経験したことでしか表せない切なさとか哀愁、そんな表現ができる人間になれたらカッコいい。日々の生き方の積み重ねが集大成となる。暑い毎日が続いておりますが、ダラダラしないでメリハリのある生活を送りたいものだ…。
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by suzunobu-nigaoe | 2008-08-07 23:59 | 1950-1954(55~59才)
2008年 07月 31日

あれからもう3年。【本田美奈子】

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本田美奈子.本名:工藤美奈子、1967年7月31日生まれ。(今日が誕生日)埼玉県朝霞市出身。堀越高等学校卒業。1980年代後半を代表するアイドル歌手であり、1990年代以降は主にミュージカルで活躍した。2000年代に入ってからはクラシックとのクロスオーバーに挑戦するなど、活躍した領域の広汎さでは日本の芸能史上出色の存在である。中学生の時『スター誕生!』のオーディションを受けたが、決戦大会ではスカウトは受けず少女隊のメンバーを探していたボンド企画に見出され芸能界に入った。しかし当初の構想に反し、その歌唱力の高さを見込まれソロ歌手として活動することになった。1984年第8回長崎歌謡祭でグランプリを受賞。翌1985年4月20日東芝EMIから「殺意のバカンス」でデビュー。新人歌手としては異例の武道館コンサートを成功させた。

1986年2月5日「1986年のマリリン」をリリースし大ヒットとなった。へそを露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど当時のアイドル歌手としては異例の演出と相俟って彼女の名を広く世間に知らしめた。同曲は今もって本田の最も有名な楽曲である。1990年ミュージカル『ミス・サイゴン』のオーディションを受け、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた。1992年5月5日『ミス・サイゴン』日本初演。以来一年半のロングランをこなし、その歌唱力、演技力を高く評価された。1994年『屋根の上のバイオリン弾き』、1996年『王様と私』にタプチム役で出演。1997年『レ・ミゼラブル』にエポニーヌ役で出演。高い評価を受ける。しかしながら2005年11月6日、家族らの見守る中、白血病を患い逝去した。38年と3ヶ月の生涯だった。

生きていたら41歳。まだまだ、アーティストとして十分に活躍できる年齢と実力を持っていたのに、人生は本人の意思と拘わらず突然幕を降ろされてしまう。心残りだろうな…。まだ健康で生きられているだけ喜ばなければならない。当たり前じゃないんだよね、こうして日々送れると言うことは。嫌なことも上手くいかないことも確かにあるだろう。でも被害妄想になってはいけない。決して自分だけじゃない。生きられなかった彼女の分までなどとおこがましいことを言うつもりはない。今生きているこの人生は限りあるものなんだと再認識させてもらえて感謝である(-_-;)
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by suzunobu-nigaoe | 2008-07-31 23:59 | 1965-1969(40~44才)
2008年 07月 28日

村上春樹チルドレンと自称。【スガシカオ】

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スガシカオ、菅 止戈男、1966年7月28日生まれ。(今日が誕生日) 血液型O型。東京都渋谷区出身。身長171cm。体重57kg。二浪を経て東京経済大学に入学。卒業後、制作会社に入社。配属は新規開発事業部。この当時、ファンクバンドマラカスホワイトスペシャルバンドのボーカルとして不定期に活動。その後、4年間のサラリーマン生活を経て退職。1995年、インディーズよりミニアルバム「0101」を発売。その後、現所属事務所であるオフィスオーガスタと契約。1997年2月、キティ・エンタープライズ(現ユニバーサルミュージック)より1stシングル『ヒットチャートをかけぬけろ』で、30歳にしてメジャーデビュー。業界の常識では考えられない遅すぎるデビューと言われる。以後、ラジオ局のヘビーローテーション、音楽専門誌を中心に、業界の注目を集める。同年9月、1stアルバム『Clover』発売。

1998年、SMAPのシングル『夜空ノムコウ』に詞を提供。SMAP初のミリオンセラーとなり、スガシカオの名も一躍全国区に知れ渡る。同年8月には初の全国ツアーを敢行。1999年、杏子、山崎まさよしとのスペシャルユニット「福耳」名義でのシングル、『星のかけらを探しに行こう Again』が発売。2001年、5thアルバム『Sugarless』発売。オリコンアルバムチャート初登場1位を獲得。2003年、BMG JAPANに移籍。作品は所属事務所提携レーベル「オーガスタレコード」からの発売となる。2006年、NHK制作番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』のためのスペシャルユニット「k?kua」に、ボーカル及び作詞・作曲として参加。その主題歌『Progress』を発表。同年2月には1966年生まれのアーティストが集結したイベント「ROOTS 66:DON'T TRUST OVER 40」に参加。トータス松本、田島貴男、斉藤和義等と共演。同年12月、第57回NHK紅白歌合戦に初出場。ソロ名義で『Progress』を演奏。

転職ミュージシャンとして今ではすっかり有名な彼。仕事のできたサラリーマン時代を語るエピソードとして、役職を係長に上げるから辞めないでくれと慰留された経緯がある。人間転機は誰にでもある。私も何度か転職もした。しかし、過去の経験が全く活かされない仕事に就いてしまう人も少なくない。幸いにも私はキャリア、人間関係も含め、活かされている現状に恵まれているなと痛感する。無駄にならない過去、切れない人間関係、心掛け次第で点と点ではなく線に変えることも難しくはない。一度切ってしまったらゼロからのスタートになる。繋げる工夫も意味のあることだ。スガシカオも無駄ではなかったサラリーマン時代と、インタビューで答えていた。
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by suzunobu-nigaoe | 2008-07-28 23:59