鈴信博堂の似顔絵日記

suzunobu.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:1935-1939(70~74才)( 17 )


2009年 02月 07日

3分の歌も2時間の映画も感動の密度は同じである。【阿久悠】

c0119436_202758.jpg
c0119436_2022066.jpg
この題字は三菱鉛筆ボールペン「ジェットストリーム」で直筆したものです。


阿久悠、1937年2月7日生まれ。(今日が誕生日)2007年8月1日逝去。
“ 本当に不機嫌ですもんね皆。あの、条件が整って、生活の条件が整えば整うほど人間というのはどっか不機嫌になっていく不思議さですね。で、歌が一番大事なのは、こんな不幸な目にあって悲しいっていうことではなくって、不幸のちょっと手前のね、切ない部分がどう書けるかということが、僕は一番大切なことだと思ってるんですよ。生前の阿久氏のコメントである。難しすぎて意味がよく分らないが(;一_一)、含蓄のある言葉であることは解る。ちょっと手前の切なさ…、これが分らない自分は鈍感なのかもしれないが、今多くの人が経験したことのない不況の中で先の見えない不安を抱えている。不謹慎ではあるが現状も歌になりやすい状況なのかもしれない。いろんな観察の仕方があるものだ。視点を変えること、今こそ求められているのかもしれない(@_@)
[PR]

by suzunobu-nigaoe | 2009-02-07 20:04 | 1935-1939(70~74才)
2009年 01月 08日

最多ヒットシングル記録(151回)のギネス記録を持つ。【エルヴィス・プレスリー】

c0119436_951699.jpg
c0119436_952834.jpg


エルヴィス・プレスリー、1935年1月8日生まれ。(今日が誕生日)1977年8月16日逝去。(満42歳没)
黒人のリズム&ブルースと白人のカントリー&ウェスタンを融合することによって、今までにない新しい音、ロックを誕生させ広めた人物として知られる。しかしながら、今でこそ讃えられる彼の音楽性も、初期には不良の代名詞的扱いの時期もあった。とかく新しいモノ、革新的な行為は受け入れられるのに時間を要する。手詰まりの世界的な悪循環の中、求められるは斬新なシステムであり、人物なわけで音楽に限らず、誰か救世主よ、現れてはくれないだろうか(^_^;)
[PR]

by suzunobu-nigaoe | 2009-01-08 23:59 | 1935-1939(70~74才)
2008年 09月 14日

2004年から意識不明のまま植物状態だったらしい。【赤塚不二夫】

c0119436_22491232.jpg

赤塚不二夫、本名:赤塚藤雄、1935年9月14日生まれ。(今日が誕生日)死没:2008年8月2日(満72歳没)東京都文京区出身。 『天才バカボン』『おそ松くん』などのギャグ漫画で知られている。血液型A型。出生地は満州国、本籍地は新潟県内。満州国熱河省に生まれ、6人兄弟の長男として育つ。後に「バカボンのパパ」のモデルとなった父親は、憲兵やスパイとして僻地で宣撫工作を行う特務機関員をしていた。金銭的な問題のために高校への進学は断念。少しでも絵に関係した仕事に就きたいという思いから、映画の看板を制作する市内の看板屋に就職。仕事柄あらゆる映画を鑑賞することとなり、バスター・キートンやチャーリー・チャップリンの喜劇に感銘を受け、同時に「漫画少年」への投稿も始めた。

1956年、曙出版から描き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビュー。その後、石森を手伝う形で鈴木伸一や藤子不二雄らのいた豊島区のトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。後にブレイン役として長く不二夫を支えた長谷邦夫ともこの頃知り合う。1962年、『おそ松くん』、『ひみつのアッコちゃん』の連載を開始すると一躍人気作家となる。1967年、『天才バカボン』を発表。天才ギャグ作家として時代の寵児となる。1987年、多忙を極める中アルコール依存症に陥っていた不二夫のサポートをと前妻が勧めたことにより、眞知子と結婚。2000年、硬膜下血腫で手術。2006年、赤塚を看病してきた妻の眞知子がクモ膜下出血のため56歳で急逝。前妻も自身の逝去3日目に急逝。

まさに彼の作品と同時に育った世代の私には、漫画のキャラクタ同様いろんあ影響を受けた。テレビアニメ化されたいくつかの作品は今でも主題歌は歌えるし、何も見ないでニャロメやケムンパスを描くことも容易だ。私は劇画漫画が好きだったが、単純な線で表すギャグマンがと言うのは意外にも絵の原点に近いのかもしれない。デフォルメと言って、絵のテクニックでは元の絵を如何に特徴的に崩すかなる技法があるが、似顔絵もかなりその点では漫画に近い部分も持ち合わせている。ひとつの時代が終わったのかもしれないが、彼の作品は今でも多くの人々に笑いとウィットを与え続けてくれている。
[PR]

by suzunobu-nigaoe | 2008-09-14 22:51 | 1935-1939(70~74才)
2008年 09月 08日

最初の太平洋単独渡航は密出国扱いだった。【堀江謙一】

c0119436_23514189.jpg

堀江謙一、1938年9月8日生まれ。(今日が誕生日)大阪市生まれ。兵庫県芦屋市在住。関西大学第一高等学校卒業。アマチュア無線家でもある。1962年、マーメイド号による西宮-サンフランシスコ間の太平洋単独航海に成功。「マーメイド」の名は、敷島紡績(現:シキボウ)から、資金不足に悩んでいる際、当社の人魚マークを帆に入れてくれれば、帆を一式寄付するとの申し出を受け、同社の人魚マークが入った帆の寄付を受けた事に因んだ。また、1974年には270日余りで単独・無寄港の世界一周を成功させた。

2004年からヨット「SUNTORY マーメイド号」で単独無寄港による世界一周(東回り)に挑戦し、2004年10月に兵庫県西宮市の新西宮ヨットハーバーから出発していたが、2005年6月に新西宮ヨットハーバーに無事帰還を果たした。東西両方向周りで世界一周航海をしたのは日本人初、世界でもオーストラリア人に次ぎ2人目という記録である。そして今年7月4日、波の力だけを動力とする波浪推進船「SUNTORYマーメイドII号」で約6000Kmある紀伊水道-ハワイ間の世界初の航海に成功した。航海は年齢が「三桁になるまでやるつもり」と語っているという。

そして今日で70歳を迎えた。飽くなきチャレンジ精神は何処から来るんだろう?家族はどうしてるのだろう?もし彼が謙虚な人だったら冒険家には向かない。よく言えば強い精神力、悪く言えば頑固な我儘野郎。成功したから美談になるが、大海原の木の葉の藻屑と化していたなら非難轟々だったに違いない。仕事でも趣味でも結果さえ出せば褒め称えられるが、この結果というのは名誉的な扱いを除いては、お金を稼げるかどうかにかかっていると言っても過言ではない。我儘も稼げれば意思が強いとなる訳だ。私も彼ほどではないにしろ、かなり我儘に生きている。好き勝手にと言うべきか、嫌な事を我慢しない生活が身についてしまった。今更直る訳もなく、これからも自分勝手と言われそうな日常が目に見える。開き直るが、批判されない人などこの世に存在しない。だったら、犯罪を犯さない限りやりたいことはやるべきだと常々感じる。極力他人に迷惑をかけない程度に^_^;
[PR]

by suzunobu-nigaoe | 2008-09-08 23:51 | 1935-1939(70~74才)
2008年 07月 23日

元祖巨乳アイドル。【朝丘雪路】

c0119436_935346.jpg

朝丘雪路、1935年7月23日生まれ。(今日が誕生日) 東京都中央区出身。血液型B型。元宝塚歌劇団月組娘役。父は日本画家の伊東深水。夫は津川雅彦、娘は真由子。義兄は長門裕之、義姉は南田洋子。日舞の深水流家元として、深水 美智雪の名も持つ。料亭「勝田」女将の勝田麻起子の娘として生まれる。芸事を好んだ母の勧めで3歳より日本舞踊を花柳三之輔に師事。妾腹ではあるが父に溺愛され、小学校の通学にも養育係とともに人力車で通っていた。養育係は登校時間のあとは下校まで彼女を車屋と学校で待っていた。

このようなあまりの過保護ぶりを見た深水の友人でもあった小林一三に「娘さんがだめになる」と言われたため、山脇学園卒業後、小林が主催する宝塚歌劇に入団、月組に在籍。20歳で宝塚をやめ、水谷良重、東郷たまみとともに「七光会」(三人とも有名人の娘だったため)として、テレビにデビューする。1960年代に人気テレビ番組『11PM』のアシスタントとなって人気を集める。1967年に医師と結婚、男児をもうける。1968年に現夫との不倫が疑われ離婚する。1973年に津川雅彦と再婚。1974年に真由子を出産。その後も女優として活躍。お嬢様育ちのおっとりしたキャラクターと常識外れな発言で人気を集め、バラエティ番組に多数出演している。

女性は元気だ。70を過ぎて活躍している人が最近では多い。もちろん個人差はあるが、そのひとの健康管理、気持ちの持ち方、環境で若さの差は大きく異なる。だから一概に年齢で判断することは正しくない。老成してる若者も多いし、老けて見える人だって少なくない。若い時には年上に見られたかったが、何時頃からだろう、歳相応でも若く見られても気にならなくなったのは。今日もたまたま30代に間違われた。童顔のせいか、初対面の人は意外と若く見てくれる^_^;有難いことだととりあえず言っておこう。70代、80代で活躍される多くの現役の方々に、これからも頑張ってとエールを贈りたい。
[PR]

by suzunobu-nigaoe | 2008-07-23 23:59 | 1935-1939(70~74才)
2008年 04月 13日

平和の祭典を上手にリードして。【ダライ・ラマ】

c0119436_9531296.jpg

ダライ・ラマ14世、1935年7月6日生まれ。尊称 クンドゥン。チベット出身。宗派 チベット仏教ゲルグ派。ノーベル平和賞受賞者(1989年)。チベット仏教のゲルク派の最高位の仏教博士号(ゲシェ・ラランパ)を持つ僧侶であり、チベット仏教の全宗派の伝統の教えを継承し研鑚を積んでおり、教え・実践両面のすべての領域における最高の権威者(チューキ・ゲーポ;法王)として広く認められている。チベット亡命政府の指導者でもある。

1989年には、世界平和やチベット宗教・文化の普及に対する貢献が高く評価され、ノーベル平和賞を受賞した[19]。ノーベル平和賞の受賞に対しても中華人民共和国政府は完全無視を決め込んだだけでなく、関連図書の持込さえも禁止している。2006年9月9日にカナダ名誉市民の称号を得た。なお、カナダの名誉市民の称号を受けるのは、南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ前大統領に続いて2人目だった。中華人民共和国国務院は、ダライ・ラマ14世が2008年開催の北京オリンピックを妨害しようとしていると非難した。中華人民共和国国務院の懸念する通り、ダライ・ラマ14世に追随する亡命チベット人による北京オリンピックへの6ヶ月間抗議運動がインドで発生したり、ダライ・ラマ14世を支持する組織の要請を受けてイギリスのチャールズ皇太子が北京オリンピックの開幕式を欠席するなどの事態が実際に起きている。

オリンピックに向けて、中国とチベット人との軋轢が問題化されているが、古くから世界中でこの種の争いごとは後を絶たない。人間は自国・己の利益のみを主張し、相容れない相手を認めようとしない。それどころか、邪魔な者は廃絶していく。この歴史は人間が誕生したときから全くもって変わらない愚かなことだ。だから進歩してきたという人もいるが、個人的には争いごとは好まない。人を許すことは難しいが、許してしまうことで心が楽になる事だってある。相手のことは非難するが、自分のこととなると見えてないことも少なくない。些細なことは目をつぶってしまおう。何とかなるものだ。今日もブログアップが多少遅れたが、どうか許して頂きたい^_^;。
[PR]

by suzunobu-nigaoe | 2008-04-13 23:59 | 1935-1939(70~74才)
2008年 01月 02日

「笑点」の企画発案者。【立川談志】

c0119436_444777.jpg

立川談志、1936年1月2日生まれ。東京都江戸川区小石川出身。5代目と自称。有限会社談志役場(松岡慎太郎社長=談志の息子)、「立川企画」(松岡由雄社長=談志の実弟) 等身内で一門のマネージメントを担う。娘は銀座クラブホステスの松岡弓子(元バラエティタレント)ママ。古典落語に広く通じ、現代と古典との乖離を絶えず意識しつつ、長年にわたって理論と感覚の両面から落語に挑み続けている。古典落語を現代的価値観・感性で表現しなおそうという野心的努力は評価されているが、古典本来の持つ格調高さを損なう場合も有る。落語のほか講談、漫談をも得意とするなど、芸域は広い。自ら落語立川流を主宰し、「家元」を名乗る。出囃子は『木賊刈』。5代目三遊亭圓楽、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝死去後は8代目橘家圓蔵)と共に落語四天王と呼ばれた。

日本テレビ『笑点』の企画を発案し、1966年5月から1969年11月まで初代司会者を務める。後に、笑点放送100回記念では桂歌丸と異色漫才を行った。1971年参議院議員通常選挙に全国区から無所属で初当選。直後に自由民主党に入党。1975年三木内閣の沖縄開発庁政務次官に就任したが、わずか36日で辞任。自民党を離党し、任期を1年残し参議院議員を辞職する。2003年9月11日「談志2REVOLUTION」名義でシングルCDとして発売。ラップミュージックとなっている。2004年3月24日に、シングル「国会」を発売。手塚治虫の熱烈なファン。噺家としての全盛期の実力に対する評価は概して高いものの、直情径行な性格により数々の過激な争いを起こし続けており、敵を作ることも厭わない「暴れん坊」ぶりもあって、毀誉褒貶の激しい人物でもある。「お笑いに才能は絶対、必要だ」というのが談志の持論。

理解不能な天才、とでも言うのだろうか。常人には解り得ない言動が魅力でもある。今日が誕生日だから72歳。病気をも乗り越えて、最近メディアで顔を出す機会が多いようだが、健康には十分気遣っていただきたい。芸のない芸人の多い中で、賛否はあるが独自の世界を切り開いている部分は高い評価を得ている。協調か個性か、難しい選択ではあるが、これからの時代ますます他人と違う才能・知識が評価される時代になってきてるように感じる。学ぶことは大切だが、学校のためにではなく自分のために勉強してほしい、特にこれからの子供達には。正月も二日目。三日坊主にならないように、自分に合ったこと、見つけられるといいね。
[PR]

by suzunobu-nigaoe | 2008-01-02 04:46 | 1935-1939(70~74才)
2007年 12月 16日

エー、70歳を過ぎてたの?【野際陽子】

c0119436_1324168.jpg

野際陽子、1936年1月2日生まれ。富山県富山市出身。血液型A型。大学在学中から劇団テアトルジュンヌに所属し、数々の作品に出演。後輩には相島一之がおり、大学のサークルの1年先輩には東海林のり子がいた。大学卒業後、1958年にNHKにアナウンサーとして入局。1962年に退社してフリーアナウンサーになる。1963年にはTBS系列ドラマ「近鉄金曜劇場・悲の器」にて女優デビューを果たす。1966年にはソルボンヌ大学でフランス文学を学んで翌年帰国。その後は女優業を中心に活動し、『キイハンター』への出演で一気に人気を得る。共演した千葉真一とは1973年に結婚し、長女(真瀬樹里)を出産。出産時は高齢出産で話題を呼んだ(千葉とは1994年に離婚)。

一時期は白川由美とお母さん女優の双璧とまで呼ばれていたほど姑役に定評がある。夫婦役では伊東四朗との共演が多く、伊東は「野際さんは本当にお若いし努力家で素晴らしい人だ」と発言した。代表作は数多く、必殺仕掛人、はいからさんが通る、静かなるドン、あぶない刑事、サラリーマン金太郎、
水戸黄門、ドラゴン桜、ナースのお仕事、ショムニ、ガラスの仮面等、枚挙にいとまがない。バラエティにも数多く出演されており、テレビ界の歴史を見ているかのような人だ。

参考にした写真のせいか、幾分若く描いてしまったかもしれない。しかし、70歳を過ぎた女性にしては素敵な年齢を重ねている代表のように取り上げられる彼女。体型も若いころとさして変わらない。本人の努力もあるだろうが、生き方の姿勢が素晴らしいのだろう。表情は日々の積み重ねと言うではないか。だから、いろんな役柄が可能なんだろうな。いつものタッチと違うのにお気づきだろうか?淡い色合いでの表現もその人となりを適切に表せるような気がして試してみた。生き方も穏やかに過ごせたら幸いだ。
[PR]

by suzunobu-nigaoe | 2007-12-16 13:25 | 1935-1939(70~74才)
2007年 12月 05日

紅白出場44回目、流石!【北島三郎】

c0119436_617257.jpg

北島三郎、1936年10月4日生まれ。愛称サブちゃん。作曲家としては原譲二の筆名で活動。北海道知内町出身。『函館の女』に始まる「女シリーズ」、『兄弟仁義』などの「任侠シリーズ」各曲など、数多くのヒット曲により、演歌の第一人者という評価を得ている。演歌の振興や後進の育成にも貢献しており、山本譲二、小金沢昇司など、北島と同じ事務所または北島を慕う演歌歌手によって北島ファミリーが形成されている。ファミリーからは親父と呼ばれている。

出身の知内を離れ、北海道函館西高等学校に進学。在学中に函館で開催された「NHKのど自慢」に出場し、歌手を志すようになった。18歳で高校を中退、東京の親族を頼って上京し、当初は東京声専音楽学校に入学。しかし歌謡曲への志向が強く、渋谷を拠点に流しの仕事をしながらデビューを目指すようになった。流しの収入は3曲100円であったと言われる。またこの頃、妻雅子(後に北島音楽事務所社長となる)と結婚。北島三郎という芸名は、当時の恩師であった船村徹によって命名された。北の島から来たので姓を北島とし、また三郎はみんなが親しみやすい様にとの理由であった。2007年紅白歌合戦第58回に、44回最多出場として選出される。

大晦日の紅白歌合戦の出場者が決まった。大物に欠ける今回の選定ともっぱらだが、44回目は見事だ。大御所と言う表現がピッタリの北島さん。高い山も裾野が広いように、彼の人間性にも似たような寛大さが見える。日頃の姿勢、考え方がその人間を作り上げるのかな?でもある程度の年齢になると、自分の人間としての最終的な高さが、なんとなく想像つくよね。決して諦めてる訳じゃないけれど、できる事とできない事が見えてしまう。だから、比較しないようにしたいよね。周りと見比べると、それだけで落胆したり凹んだり…。自分らしく、自分らしく。
[PR]

by suzunobu-nigaoe | 2007-12-05 23:59 | 1935-1939(70~74才)
2007年 12月 01日

芸人の鑑です。【伊東四朗】

c0119436_19224245.jpg

伊東四朗、別名:ベンジャミン伊東、1937年6月15日生まれ。東京都新宿区出身。都立市ヶ谷商業高等学校卒業。次男はタレントの伊東孝明。1958年、石井均一座に参加。同期には財津一郎らがいた。石井一座解散とともにてんぷくトリオを旗揚げした。軽演劇の流れを汲むコントで、舞台・テレビで徐々に人気となり、三波のギャグ「びっくりしたなぁ、もぅ」が大当たりして茶の間の人気お笑いグループとしての地位を確立した。1973年に戸塚睦夫が42歳の若さで逝去し、てんぷくトリオの活動に困難が生じるも、三波と2人で「てんぷく」の名を守った。1972年から毎週日曜日に三波らと共に出演していたNHKの『お笑いオンステージ』内「てんぷく笑劇場」での活躍が代表的である。

1975年以降、小松政夫との共演が話題になり、テレビ番組『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』での親子コントや『電線音頭』でのベンジャミン伊東、『笑って笑って60分』での「小松の親分さん」などのネタで人気に火がついた。小松と2人で生み出したギャグがいくつもあるが、正月によく流れる琴による演奏の『春の海』を口で表現する「つん、つくつくつくつん。つん、つくつくつくつん。ひやーひんひらひらりー、べんべらべんべらべんべらべんべらべん」は伊東のオリジナルである。また、「ずん」や「ニン」、「ど~かひとつ」といったギャグも有名になった。テレビではあまり見られないが、歌の素養もあり、ギターの弾き語りもするなど、幅広いエンターテイナーとしての素地を持った芸人である。優れたリズム感は70歳近くになっても衰えず、『伊東家の食卓』での体を使ったゲームなどは若者に先駆けてクリアしていた。

芸人である。シリアスな役者もこなせるし、バラエティでも話芸が光る。今のお笑いの人達とは一線を画す。積み重ねた芸は裏切らないと言うことか。一朝一夕に売れることもあるかもしれないが、長い間残ると言うことは大切なことだ。伊東さんのような芸人が出てくることは貴重なことだ。大御所に見習うことは今も昔も沢山ある。
[PR]

by suzunobu-nigaoe | 2007-12-01 19:24 | 1935-1939(70~74才)