鈴信博堂の似顔絵日記

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カテゴリ:-1919(91才~)( 6 )


2009年 03月 23日

「清張以前」「清張以後」と言う言葉まで生まれた。【松本清張】

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この題字は三菱鉛筆ボールペン「ジェットストリーム」で直筆したものです。

松本清張、1909年12月21日生まれ。1992年8月4日逝去。(満82歳没)
46歳から「張込み」「顔」で推理小説を書き始め、2年後『顔』が第10回日本探偵作家クラブ賞を受賞。同年から雑誌『旅』に「点と線」を連載。翌年刊行され、『眼の壁』とともに「社会派推理小説」とよばれ、ベストセラーとなり「清張ブーム」が起こった。その後も執筆量は衰えず、『かげろう絵図』『黒い画集』『歪んだ複写』などを上梓。執筆量の限界に挑んだが、書痙となり、以後口述筆記をさせ、それに加筆するという形になった。「自分は作家としてのスタートが遅かったので、残された時間の全てを作家活動に注ぎたい」と語り、広汎なテーマについて質の高い作品を多作したようだが、誰にでもできることではない。それまで高い意識を持って生きてきたからこそ叶った作家生活だったに違いない。結果を残せなければ生業にはなり得ない。自分に言い聞かせるかのように(-.-)
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by suzunobu-nigaoe | 2009-03-23 23:59 | -1919(91才~)
2008年 12月 14日

「子どもの平和としあわせ」が生涯のテーマでした。【いわさきちひろ】

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いわさきちひろ、1918年12月15日生まれ。1974年8月8日逝去。
本来のこの似顔絵ブログは、今活躍している方を描くことが目的だった。ところが、いろんな方を調べていくうちに、生きている方だけでなく、亡くなった偉大な方の影響が今に生きていることを教えられた。いわさきちひろさんも没後30年以上経つのに、多くのファンが全国に存在する。だからと言うわけではないが、陳腐な紹介文は失礼に思えた。いつもの何倍も時間がかかったけれど、考えている時間が楽しかった。ありがとうございます。
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by suzunobu-nigaoe | 2008-12-14 23:59 | -1919(91才~)
2008年 08月 12日

「ものまね王座決定戦」での名物審査員姿が懐かしい。【淡谷のり子】

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淡谷のり子、1907年8月12日生まれ。(今日が誕生日) 1999年9月22日逝去(92歳)。青森県青森市出身。愛称は淡谷先生。日本のシャンソン界の先駆者であり、代表曲から「ブルースの女王」と呼ばれる。デビュー当初は、綺麗なハイトーンで素直な歌唱だったが、やがて、妖艶なソプラノで「昭和モダン」の哀愁を歌った。1910年の青森市大火によって生家が没落。10代の頃に実家が破産し、1923年に母と妹と共に上京。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科に入学する。後に荻野綾子に声楽の資質を見出されて声楽科に編入。オペラ歌手を目指すためクラシックの基礎を学んだ。しかし家がだんだんと貧しくなり、学校を1年間休学して絵画の裸婦のモデルを勤めるなどして生活費を稼いだ。淡谷をモデルにした「裸婦臥像」は二科会に出展された。

1931年コロムビアへ移籍。古賀メロディーの「私此頃憂鬱よ」がヒット。映画主題歌を中心に外国のポピュラーソングを吹込む。これらの楽曲は、昭和モダンの香りを漂わせていた。1935年の「ドンニャ・マリキータ」はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手の第1号となる。日中戦争が勃発した1937年に「別れのブルース」が大ヒット、スターダムへ登りつめる。ブルースの情感を出すために吹込み前の晩酒・タバコを呷り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌う。その後も数々の名曲を世に送り出し「淡谷のり子」の名をとどろかせる。

記憶に残る芸能人は少ない。淡谷さんのピーク時は記憶にないが(当たり前だけど)、晩年の歌番組での審査員での歯に衣着せぬ物言いは爽快かつ小気味いいものがあった。物事をハッキリ言えるのは、それ相応のキャリアがないとできることではないし、下手すれば敵も作り易い。愛情から出ている言葉は、厳しささえも相手に伝わる。今の時代私も含め、子供や部下に厳しく対処することができないと言われている。無難に接していたほうが楽だし、相手から嫌われることも少ない。でも本当に言わなければならないこと、相手のためになるならないことはキチンと伝えることも必要だ。淡谷さんが亡くなられて早9年。芸能人でなくとも記憶に残るような生き方ができたら幸いだ。
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by suzunobu-nigaoe | 2008-08-12 18:24 | -1919(91才~)
2008年 06月 14日

文学者の自殺って多いよね。【川端康成】

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川端康成、1899年6月14日生まれ。(今日が誕生日)1972年4月16日逝去。大阪府北区出身。父は栄吉(医師)、母はゲン。姉芳子。東京帝国大学文学部国文学科卒業。菊池寛に認められて文壇入り。横光利一らと共に『文藝時代』を創刊し、新感覚派の代表として活躍。『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『古都』など日本の美を表現した作品を発表し、1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した。1972年、ガス自殺した。著作権失効年は2022年。

幼くして両親祖父母、身近な近親者を亡くす。小学校の同級生に笹川良一がいる。中学卒業と共に上京し、浅草蔵前の従兄の家に居候し、予備校に通い始め、第一高等学校の一部乙、英文科に入った。後年『伊豆の踊子』で書かれる旅芸人とのやりとりは、翌年の秋に伊豆へ旅行したときのものである。その後10年間、伊豆湯ヶ島湯本館へ通うようになった。27歳で結婚、翌年豊多摩郡杉並町馬橋(高円寺)に移転。同人雑誌『手帖』を創刊し、のちに『近代生活』『文学』『文学界』の同人となった。その後、菊池寛賞を受賞。ノーベル文学賞受賞と日本文学の代表的存在となった。

グーグルのトップページを覗いていたら川端氏のロゴになっていたので描いてみる気になった。でも、川端氏は幸せだったんだろうか?絶賛される彼の業績とは裏腹に晩年の生き方に疑問を感じる。自殺の是非だけを言ってるのではない。大きな賞を受賞したために引き起こる重圧。人間期待に応えようとする姿勢は大切だ。しかし、その重圧に潰されて本来の望む環境とは異なった生き方をしてしまっていたなら悲惨だ。お金を得ること、有名になること、凡人の夢ではあるがそれほど良いものなんだろうか?天寿を全うする時に「生まれてきて良かった。」と、思えるような生き方ができたら理想的だが難しいんだろうな…。
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by suzunobu-nigaoe | 2008-06-14 23:59 | -1919(91才~)
2008年 06月 10日

日本初ラーメンの紹介者。【水戸黄門】

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川光圀(水戸黄門)、寛永5年6月10日生まれ。死没 元禄13年12月6日。)似顔絵は、テレビで水戸黄門を14年務めた東野 英治郎、1907年9月17日生まれ。江戸時代の常陸国水戸藩第2代藩主。初代藩主徳川頼房の三男、母は側室・谷氏。徳川家康の孫に当たる。藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、蝦夷地の探検などを行ったほか、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。徳川一門の長老として、将軍綱吉期には幕政にも影響力を持った。

同時代から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立しているが、江戸後期から近代には白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をするフィクションとしての水戸黄門(黄門漫遊伝説)が確立する。水戸黄門は講談や歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得し、昭和時代には映画やテレビドラマなどの題材とされた。詳細は水戸黄門を参照。現在では光圀伝承を排除した実証的光圀像の検討も行われており、光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている一方で、為政者としては文化事業が招いた光圀以降の藩財政悪化が指摘されている。

テレビドラマでおなじみの水戸黄門。私の出身地は水戸の隣のひたちなか市。偕楽園は庭みたいなもんだし、子供のころから良く行く身近な都市が水戸であった。たまたま今日10日は30代で授かった?初孫の9歳の誕生日でもある。数いる黄門様役の中で東野氏が一番印象に強かったので彼をモチーフに描かせて頂いた。水戸には大塚家と言う私の亡くなった両親が結婚式を挙げた式場があって、そこでは今でも当時黄門様が食したと言われる食事を再現してコース料理にして出してくれる。ご存知だろうか、広さ世界第2位の公園都市はセントラルパークについで水戸なのだ。千波湖と言う白鳥で有名な湖も絶景だ。故郷はいいものだ。東京にいるとそれを強く感じる。こんなすてきな街を懐かしめる幸せ、生まれ育った町があるというのは悪くない。一度散策に水戸を訪れることをお奨めする。スーパーひたちで上野から1時間程度で行くことができる。穴場をご紹介しますよ(^.^)
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by suzunobu-nigaoe | 2008-06-10 23:59 | -1919(91才~)
2008年 05月 27日

今日でいよいよ90歳。【中曽根康弘】

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中曾根康弘、1918年5月27日生まれ。(今日が誕生日、90歳)群馬県高崎市出身。東京帝国大学卒。第71~73代内閣総理大臣(在任:1982年11月27日-1987年11月6日)。衆議院議員連続20回当選(1947年~2003年)。位階勲等は従六位大勲位。現職は財団法人「世界平和研究所」会長、拓殖大学第12代総長・理事長、名誉総長、東アジア共同体評議会会長。新憲法制定議員同盟会長。職歴は内務省、大日本帝国海軍を経て、内務省に再勤、退官後、衆議院議員選挙に立候補。 以来、中曾根派を形成するなど自由民主党内で頭角を現し、科学技術庁長官をはじめとして運輸大臣、防衛庁長官、通商産業大臣、行政管理庁長官などの閣僚経験を経て、内閣総理大臣となる。

2004年7月19日に鈴木善幸が亡くなったことにより最年長の首相経験者であり、昭和の総理大臣の最後の生存者となった。また、2008年現在存命の首相経験者は、すべて中曾根が辞任した後に首相になった人物である。中曾根内閣は戦後の自民党で最も新保守主義・新自由主義色が濃い内閣であった。日本専売公社、日本国有鉄道および日本電信電話公社の三公社を民営化させる他、長年半官半民であった日本航空の完全民営化を推進させた。次第に国民からの支持も安定し、1986年(昭和61年)の衆参同日選挙(死んだふり解散)では300議席をこえる圧勝となり、その功により総裁任期が1年延長された。また、経済政策ではアメリカの貿易赤字解消のためプラザ合意による円高ドル安政策をとり、これが結果的に日本をバブル経済に突入させたこともありこれについては少なからず批判もある。小泉2003年自由民主党の比例区における73歳の定年制導入により、2003年の総選挙では、自民党の比例区からの出馬が出来ず、立候補を断念し引退した。

政治家は妖怪だ、怪物だとよくささやかれる。個人差はあるが90を超えた今も矍鑠とした人となりには一般人との違いを感じずにはいられない。私の父は65、母も71でこの世を去った。いずれも中曾根氏よりも後から生まれたにも拘わらずだ。想像するに物事への執着が人一倍強いのだろう。生きてやろうと言う思いも半端じゃないに違いない。長短は別にして、健康で生きることは大切だ。どんなにお金があっても健全でない体は煩わしく思える。適度な運動も必要だろうが、それ以上に心のあり方が重要に違いない。楽しく生きられたらいいのだが、人生はそれを毎日は許してはくれない。でも気持ちの持ち方で楽観的に過ごす事はそう難しくは無い。ひと言で言うと受け入れてしまうことかな?もし、私が平均寿命より生きれたとしたならその時証明できるかもしれない。特に長生きにこだわっているわけではないが^_^;せめて、頂いた命なら天寿を全うしたいものだ。川田アナには冥福を祈りたい。
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by suzunobu-nigaoe | 2008-05-27 23:59 | -1919(91才~)