鈴信博堂の似顔絵日記

suzunobu.exblog.jp
ブログトップ
2008年 08月 12日

「ものまね王座決定戦」での名物審査員姿が懐かしい。【淡谷のり子】

c0119436_18221233.jpg

淡谷のり子、1907年8月12日生まれ。(今日が誕生日) 1999年9月22日逝去(92歳)。青森県青森市出身。愛称は淡谷先生。日本のシャンソン界の先駆者であり、代表曲から「ブルースの女王」と呼ばれる。デビュー当初は、綺麗なハイトーンで素直な歌唱だったが、やがて、妖艶なソプラノで「昭和モダン」の哀愁を歌った。1910年の青森市大火によって生家が没落。10代の頃に実家が破産し、1923年に母と妹と共に上京。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科に入学する。後に荻野綾子に声楽の資質を見出されて声楽科に編入。オペラ歌手を目指すためクラシックの基礎を学んだ。しかし家がだんだんと貧しくなり、学校を1年間休学して絵画の裸婦のモデルを勤めるなどして生活費を稼いだ。淡谷をモデルにした「裸婦臥像」は二科会に出展された。

1931年コロムビアへ移籍。古賀メロディーの「私此頃憂鬱よ」がヒット。映画主題歌を中心に外国のポピュラーソングを吹込む。これらの楽曲は、昭和モダンの香りを漂わせていた。1935年の「ドンニャ・マリキータ」はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手の第1号となる。日中戦争が勃発した1937年に「別れのブルース」が大ヒット、スターダムへ登りつめる。ブルースの情感を出すために吹込み前の晩酒・タバコを呷り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌う。その後も数々の名曲を世に送り出し「淡谷のり子」の名をとどろかせる。

記憶に残る芸能人は少ない。淡谷さんのピーク時は記憶にないが(当たり前だけど)、晩年の歌番組での審査員での歯に衣着せぬ物言いは爽快かつ小気味いいものがあった。物事をハッキリ言えるのは、それ相応のキャリアがないとできることではないし、下手すれば敵も作り易い。愛情から出ている言葉は、厳しささえも相手に伝わる。今の時代私も含め、子供や部下に厳しく対処することができないと言われている。無難に接していたほうが楽だし、相手から嫌われることも少ない。でも本当に言わなければならないこと、相手のためになるならないことはキチンと伝えることも必要だ。淡谷さんが亡くなられて早9年。芸能人でなくとも記憶に残るような生き方ができたら幸いだ。
[PR]

by suzunobu-nigaoe | 2008-08-12 18:24 | -1919(91才~)


<< 新境地を求めて…。【高橋ジョージ】      ♪金銀パールプレゼント~も彼の... >>